「人生」
今回引退ブログを担当させていただく石川藍流です。暇な時に2行飛ばしくらいで読んでみてください。このブログでは僕の人生の「繋がり」「常識」「精神」「ノリ」の軸を作ってくれた14年間のサッカー人生を振り返っていこうと思います。
僕は幼い頃、習い事をするのが嫌いで親に勧められた水泳だけ通っていました。習い事をするのが嫌いな理由は、公園で親や友達と色々なスポーツをするのが大好きだったので、その時間がなくなるのが嫌だからです。よく遊ぶ友達のユウマがサッカーを習っていたので、サッカーをして遊ぶことが増えていきました。ある日、僕がユウマの股を抜いてゴールを決めた日がありました。するとユウマが
「あいる、フレンドリー(小学生時の所属チーム)入りなよ。」
と言ってくれました。習い事を増やすのは嫌でしたが、体験だけ行ってみることにしました。そしたら思いのほか楽しく、入ってみることにしました。もちろんそのタイミングで水泳は辞めました。そこからサッカー中心の生活が始まります。
ユウマ、俺を誘ったの覚えてないらしいけど誘ってくれて本当にありがとう。
サッカーを始めて徐々にわかっていったことがあります。それは、誘ってくれたユウマは、東京の同年代でサッカーを真剣にやっている人で知らない人はいないくらいスーパーなサッカー小僧でした。そのサッカー小僧が1番近くにいたおかげで、僕のサッカーの上達スピードも早かったです。何個か選抜に受かることができ、どんどん「繋がり」が増えていきました。こうやって繋がりが増えていくのだなと子供ながら感じると同時に、上手いやつがたくさんいることを知りもっとサッカーが上手くなりたいと思いました。小学生では東京都ベスト8まで行くことができました。
中学は地元のクリアージュというチームに入団しました。このチームでサッカーの上達はもちろん「精神」や「ノリ」の軸ができていきました。クリアージュは、雨の日は確定で河川敷を走るチームで、だいぶ精神的に磨かれました。あとはなんといったって監督をはじめスタッフ陣がものすごく面白く、自分らの個性が強いのも合って、グランドでもグランド外でもめちゃくちゃ楽しく過ごせました。僕は一個上の学年で試合に出していただき、サッカー面もすごく成長できました。クリアージュでは関東大会に出ることができましたが、2回戦で横浜マリノスに5-0でコテンパンにされ、全然まだまだなんだと痛感しました。
高校は、運良く鹿島学園から声をかけていただき、茨城県で寮生活をすることを決めました。フレンドリーやクリアージュではチームの中心選手として活躍してきましたが、鹿島学園ではそうはいきませんでした。
1年目は慣れない寮生活に苦しみながらトップチームには上がれずBチームで燻っていました。
2年目はトップチームに上がることができましたが、スタメンとして出場することは出来ず、全く満足のいく結果を出せずに2年目も終わっていきました。
3年目、新人戦、リーグ戦はスタメンや途中からなどほとんどの試合に出場できました。ですが、1番目標にしていた冬の高校サッカー選手権には1試合も出ることができませんでした。練習で結果を出した週もベンチにも入ることができず、まだまだ考えが甘いんだな、信頼されてないんだなと沸々と感じました。大事な場面では、能力や結果だけでなく、信頼が1番大事なのかなと思いました。悔しくて仕方がなかったです。
寮生活に関しては、これまで家族としか過ごしていなかった時間を、部員たちと過ごすことになります。色々な考え方に触れ、自分の考え方のままのほうがいいなとか、この人の考え方真似したら人生豊かになりそうだなとか様々な気づきがあり、自分の中の「常識」も寮生活をしていなかったらなかなか広がることがなかったと思うので、寮生活をさせてくれた両親と仲良くしてくれた仲間に感謝しかないです。
大学でサッカーを続けるかは本当に悩みました。高校で思いっきりやって結果も出せず、両親には申し訳ないけど、いつしかプロになることも諦めていて、もうサッカーはやりきったかなと考えていました。ですが母親から、
「大学で続ける友達が練習に向かうところを見たらやりたいなって絶対思うから、やるだけやってみな。」と言ってくれたのと、就職活動でも強いと聞いていたのでやるだけやってみることにしました。
その気持ちで入ったからか、1年目は全くやる気が出ないし、通学に往復4時間かけて通っていたので、ものすごくしんどかったです。大学生は人生の夏休みという言葉を聞いたことがあり、全然そんなことないじゃんって思いましたが、世間の大学生はたくさんバイトして、色々な人生経験を積んでいて羨ましいなと思いました。部活を理由にして、世間の大学生から遅れをとりたくはなかったので、セブンイレブンでの夜勤を始め、お金を貯めることにしました。往復4時間の通学に夜勤も乗っかってきて、だいぶ体に鞭を打っていました。それが仇となったのか、1年生の冬に全く痛くもなかった右足の第五中足骨を疲労骨折し、手術と長期間の離脱が決まりました。怪我人の期間は往復4時間もかけてグランドへ行き、誰でもできるような練習のサポートと家でもできるようなトレーニングをやり、本当に行ってる意味ないなって思ってしまっていました。ですが、自分で部活をやるって決めた以上やるしかないという気持ちで踏ん張っていました。
なんとか復帰をし、サッカーの調子も出てきて、ありがたいことに僕は2年の後期くらいからトップチームで試合に出してもらえるようになりました。最初は怪我と累積で同じポジションの先輩が出れないところの穴埋めでしたが、このチャンスを掴むしかないと思い全力でチームのためにプレーしました。徐々に自分の色を出せていき、安定して試合に出れるようになりすごく嬉しかったです。
3年生でも試合に出続けていましたが、接触プレーで怪我をしていまい、また5ヶ月間ほど離脱してしまいます。その怪我人期間では、絶対にパワーアップして復帰しようと、トレーニング場に通って肉体強化に励みました。努力が実り、復帰後再び試合に出ることができました。3年生時の関東参入戦では、思うようにプレーもできず、個人的なアクシデントもあり、チームとしての結果も出ず、苦い思い出しかないです。
4年生になりオフ明けの走り込みの時、また怪我をしてしまいました。新しいチームが始まる大事な時期での離脱はすごく痛かったです。3ヶ月後に復帰しましたが、チームの状態もよくメンバーも固定されてきていました。途中出場で最後の5分くらい出るのがやっとで、すごく苦しい期間が3ヶ月ほど続きました。
そこで、転機となる試合がきます。前期の朝鮮大戦、後半の40分まで0-2で負けていたところ、僕が出場してから3-2で逆転をし、僕自身も1アシストすることができました。そこから徐々に出場時間が増えていき、やっとスタメンに戻ることができました。自分自身にも良い余裕が出てきてサッカーの調子がどんどん上がっていきました。
ですが、関東参入戦が始まる直前で軽い肉離れをしてしまい、庇いながら参入戦を戦うことになってしまいました。僕はいつも大事な時期に怪我をしてしまうので、もうこれが僕の人生なのだと受け入れ、サッカー人生ラストの勝負に全力でぶつかることにしました。参入戦の期間は、怪我のケアや自主トレ、食事など高校の時くらいかそれ以上に意識高く生活していました。それでも参入戦の5試合は満足のいくプレーはできず、チーム自体も0勝と悔しい結果に終わりましたが、一生忘れないであろう試合が1試合ありました。それは4試合目の東京学芸戦です。その試合は前の試合と戦い方もメンバーも変わり、みんな気を引き締めて全身全霊で戦っていました。それにプラスして、応援メンバーの声援がものすごく、笠井を筆頭に試合終了まで全力で応援をしてくれていていました。負けてしまいましたが、初めてチームが1つになった感覚があり嬉しかったです。
人生最後の試合は帝京大学。結果は負けてしまいましたが、みんな力が抜けていて良いプレーが何個もあったと思います。個人的には、1年生の頃から部活以外も長い時間過ごしてきた海人と最後ボランチを組めたことがすごく嬉しかったです。
僕たちの学年は半分くらい人数が減ってしまったけど、辞めてしまったみんなとも最後まで戦ったみんなとも一緒にサッカーができてよかったです!4年間ありがとう!
智樹7年間ありがとう!なぁなぁ!?
両親、最後の最後まで何ひとつ不自由なくサッカーをさせてくれてありがとうございました!
拙い文章でしたが、最後まで読んでくれた方ありがとうございます。これで僕の引退ブログを終わります。
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