日頃より大東文化大学体育会連合会サッカー部を支えてくださる皆様ありがとうございます。
今回、引退ブログを担当させていただくスポーツ科学科4年の栗原智樹です。正直、この引退ブログの存在を忘れていました。いや、忘れていたというよりかはチームメイトの一人に提出日を騙されていました。誰かは言わないでおきます中森くん。そのため、締め切りの前日に慌てて書いています。しかし、書くことが見つからず、今にも手が止まりそうです。4年間あるはずの大学サッカーでしたが、僕には2年間程度しかありませんでした。内容の薄い引退ブログになってしまうと思いますが、最後まで読んでいただけると幸いです。
小学1年生の時、二人の兄の影響でサッカーを始め、16年間サッカーを続けてきた。小学校は地元の弱小少年団でサッカーをし、中学校でもっと上手な人たちとサッカーをしたいと思い、FC深谷に所属した。3年生の時には、キャプテンも任せられ、人間として成長できたと思う。高校は、親元を離れ、鹿島学園に入学した。スタッフ、チームメイトに支えられ、3年間を通して、多くのことを学ぶことができた。1年生、2年生の時は試合になかなか出場することができなかったが、3年生の時に冬の選手権に出場することができたのは唯一の誇りである。ただ、悔しい思いをしたことの方が多く、大学サッカーで悔しさを晴らしたいと思い、大東文化大学サッカー部に入部した。しかし、思うようにはいかなかった。
大学に入学し、1年生の部活動は、公式戦の準備を手伝ったり、ボールボーイをしに片道2000円もかかる会場に行ったりと、正直めんどくさいことだらけだった。そして、大学サッカーが始まって3か月経った頃、雨の日の試合中にヘディングをして着地した際に左膝をひねってしまい、内側側副靱帯を損傷してしまった。今思うと、この怪我で僕の大学サッカーはほぼ終わってしまった。救急車で病院に運ばれ、検査をし、当時学生トレーナーをしていた木所さんに片道1時間30分かかる家まで送ってもらったのを覚えている。ただ、車の中で木所さんと会話をした内容は全く覚えてない。木所さんごめんなさい。後日、地元の病院で改めて検査をしたところ、3か月程度で復帰できるとのことだったが、3か月経っても違和感があり、復帰できなかった。セカンドオピニオンで違う病院で診てもらったところ、手術が必要とのことだった。そこから手術をし、8か月程度のリハビリが始まった。一年生のときは、最初の3か月しかサッカーをすることができず、不完全燃焼で終わってしまった。
2年生になり、新入生も入ってきた。自分はリハビリから少しずつ練習に参加し、コンディションを戻していくことができた。正直、めちゃくちゃ体が動いて、みんな1年間本当にサッカーをしていたのかと思うくらいだった。試合にも出場することができ、これからと思った矢先、左足首をひねってしまった。最初はただの捻挫だと思っていたが、なかなか痛みが消えず、病院で診てもらったところ、骨が砕けており、手術して骨を摘出する必要があると言われた。言われた瞬間、心の中で、「もうサッカーやめようかな」と思ってしまった。ただ、まだ2年生だったため、まだこれからがあると思い、手術することに決めた。8月頃に怪我をし、手術は12月に行った。そこから、また約6か月程度のリハビリが始まった。一番辛かったことは、松葉杖でキャンパス内を移動することだった。2年生の時は、毎日1限から5限まで授業があり、無駄に広いキャンパスを一人で移動していた。雨の日は濡れるし、すべるし、脇痛いし、夏は汗だくだくになるし。小学生くらいの時は、少しだけ松葉杖に憧れをもっていたけど、もう二度と松葉杖生活はしたくない。二年生の時も約3か月しかサッカーをすることができなかった。
3年生になり、リハビリを重ね、復帰することができた。ただ、サッカーに対する熱が入らなかったのが本音である。監督に部活をやめたいと相談したこともあった。僕は、自分が所属している学科で教員免許を取得しており、副免許として教育学科の授業も履修している。授業数は他の人の倍以上あり、取得単位数も200くらいである。キャンパス移動も大変であり、東松山→板橋→東松山といった訳のわからない移動をほぼ毎日していた。夜勤のアルバイトもしており、睡眠時間が3時間4時間の日もあった。自分が決めたことだから言い訳したくないが、正直、体がきつすぎた。サッカーも手術の影響で、思うように体が動かなく、前みたいな動きができないとも感じていた。授業の関係で部活にでられる日も限られたり、土曜に授業があったりするときもあった。ただ、試合には出場することができ、心のどこかで「やっぱりサッカー楽しいな」と思うこともあった。だが、本気でやることはできなかった。夏くらいから教員採用試験の勉強を始め、このまま部活を続けながら合格することができるのか不安だったが、なんとか続けたまま勉強もすることができた。部活が終わって、最終バスの21時まで自習室で勉強する日がほとんどだった。三年生は、怪我から復帰することはできたが、授業の関係や熱量の問題で、真剣にサッカーに向き合うことはできなかった。
4年生になり、ラスト一年の大学サッカーとなったが、正直、熱は入らなかった。教員採用試験の勉強、二度の教育実習など、忙しく、サッカーをしている暇などなかった。大学最後の夏休みは、ほとんどの人がエンジョイしていると思うが、自分は朝9時に学校に行き、18時くらいまで試験対策を行っていた。サッカー部のみんなは、関東リーグ昇格を目指して部活に励んでいたと思うが、本当に僕はそれどころではなかった。サッカー部のみんなごめんなさい。無事に教員採用試験も合格し、教育実習も終わり、一段落ついたが、サッカーはただこなしているだけだった。サッカー人生最後の年だし、楽しく終わればいいやという気持ちだった。自分の代は辞めていく仲間も多かったけど、こんなに追い込まれた中、四年間よく続けてきたなとさすがに自分でも思う。小学1年生から始めたサッカーで忍耐力を学び、最後にその忍耐力を発揮して大学サッカーをなんとか最後まで続けることができた。チームに貢献することはできていないと思うが、サッカーで学んだことを最後に活かせることができ、サッカーに恩返しできたと思う。
自分の思った大学生活を送ることはできなかったと思う。でも、なぜサッカーを続けられたのかを今考えてみると、やっぱりサッカーが大好きなんだと思う。勉強の合間にDAZNでサッカーを見ることもよくあった。サッカーを続けてきてよかったと今は思う。16年間サッカーありがとう。
最後に
サッカーを始めるきっかけを作ってくれた二人の兄、そしてたくさん陰で支えてくれた両親にはとても感謝しています。なかなか試合を見に来ることはなかったけど、家族のサポートがなければ16年間サッカーを続けることはできませんでした。本当にありがとう。
そして、サッカーを通じて出会った全ての人に感謝します。監督、コーチ、トレーナー、マネージャー、チームメイト本当にありがとうございました。
特にお世話になった2人へ
あいるへ
あいるとまさか7年も一緒にいるなんて思ってもなかったよ。あいるはどこでもどんな状況でも寝れる天才だと思う。高校の時は一番きつい9600mの走りの途中で眠くなったり、ミーティングで寝ないためにボディシートで顔を拭いたりと訳のわからないことをたくさんしていた。大学の練習中にも「やばい、ねむい」といった言葉をたくさん聞いてきた。ただ、サッカーに対して常に本気だったと思う。あいるがいなければ大東サッカー部は終わっていたと思う。あいるありがとう。もう一緒にサッカーしたり、一緒に電車で帰ったりすることはできないと思うとふつうにさみしい。これからもよろしくね。
かいとへ
今この文章を書いている日は、12月24日。時間は14時15分。世間はクリスマスイブで盛り上がっていると思うが、かいとはいま手術中です。かいと手術がんばれ。お互い怪我が多くてなかなか一緒にプレーすることはなかったけど、白鴎戦でかいとからもらったあの最高なパスはいつまで経っても忘れないよ。大戸屋でかいとが張り込みしたこと、川越駅で追跡したことも忘れないよ。どうしようもないかいと最高だった。参入戦の時期は送迎してくれてありがとう。あのステーキの味は一生忘れないよ。うますぎた。将来、かいとに子どもができたら俺が教育するから任せてね。かいとありがとう。これからもよろしくね。
拙い文章でしたが、最後まで読んでくれた方ありがとうございました。これで今回の引退ブログを終わりにします。
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