引退ブログ
題名:「ALL OUT」
大東文化大学サッカー部副キャプテンの井原充葵です。
はじめに、2024年シーズン、大東文化大学サッカー部を応援していただいた皆様に心より感謝申し上げます。
チームが目標に掲げていた「関東昇格」は達成できませんでしたが、皆様の支えがあり、最後まで戦い抜くことができました。
これからも大東文化大学サッカー部の応援をよろしくお願いいたします。
ついに、引退ブログを書く時が来ました。
何を、どう書くか。すごく悩みました。
結果、全部書くことにしました。
自分自身の想いや葛藤。チームへの想い。先輩、後輩への想い。
そして、将来の自分のために書きます。
社会に出て、苦しい時、辛い時、高い壁にぶつかって折れそうな時、この引退ブログを振り返って、もう一度頑張ろうと思える。将来の自分の原動力となるようなブログにしたいと思います。
大学2年生の終盤からサッカーノートを書いていました。
そのおかげで当時の状況や感情をこと細かく振り返ることができました。
その結果として、ものすごく解像度の高い内容となっています。
また、2024シーズンのスローガン
「ALL OUT」
この引退ブログにおいても体現させていただきました。
そのため、非常に長い文章となっております。
それでも、全てを出した文章ですので、ぜひ読んでいただきたいです。
よろしくお願いします。
「日常からの質の高い取り組みが未来を変える」
高校時代にお世話になったからいただいた言葉。そして、自分が大切にしている考え方だ。この言葉のおかげで、なんかやる気が出ない日も、落ち込んで立ち上がるのが難しい日も、何とか前向きに取り組むことができた。
大学4年間、楽しさや嬉しさより、苦しさや悔しさの方が圧倒的に多かった。
入学前の3月終盤、初めての練習参加はAチームの公式戦の前日だった。
そこで感じたのは、高校の時とは圧倒的に違う温度感。本当に次の日が公式戦なのかわからなかった。
進路選択のところが上手くいかなかったため、多少の覚悟はしていたが、自分が待ち望んでいたものとはほど遠い環境に絶望したのを覚えている。
入るところを間違えたと何度も思った。
高校サッカーを悔しい気持ちで終えた自分は、見返したい、プロになりたいという思いで、大学でもサッカーを続けることを選択した。
この環境ではそれは不可能なことだと思った。
こうして始まった大学サッカーも気づけば終わりを迎えていた。
結果、プロにはなれなかったし、チームの目標であった関東昇格も達成できなかった。
何も成し遂げられなかったことに対して、悔しさは当然ある。
あの時こうしていれば、、、
もっと早く気づいていれば、、、
そういう思いもたくさんある。
それでも、どこか清々しい気持ちの自分がいる。
それはこの4年間、目標に向かって本気でやり続けたと自信を持って言えるから。
悔しさを受け入れて、次のステージで、次こそは成し遂げようと意気込んでいる自分がいる。
これだけでも成長したなと自分ながらに思う。
この大学4年間は、自分とチームの両方を成長させることに向き合った。
まず、自分の話。
高校2年生の秋ごろ、トレーナーにキックのフォームが悪いことを指摘されてから、自分の身体がおかしくなっていることに気がついた。
調子の悪さは感じていたが、ちょうど試合に出られていない時期で、メンタル的にも難しかった期間であったから、不調の原因は単純に調子が悪いとか力不足だと思っていた。
でも、その指摘を受けてから自分の身体の異変を感じ取ることが多くなった。
ボールタッチの感覚が気持ち悪い。
イメージ通りのボールが蹴れない。
当たり前にできていたプレーができない。
止まりたいのに止まれない。
切り返しが重い。
頭のスピードに身体が追い付かない。
すぐに身体が重くなる。
調子は全然上がらないし、状況はどんどん悪化していく。
身体の異変の原因はわからない。
自分の思い通りのプレーができなくなり、試合にも出られていない状況。
自分が思い描いていたキャリアを歩めていないことに対して、悔しさが大きかった。
サッカーがつまらないと初めて思った。
そんな中でコロナ禍に突入し、必然的に自分と向き合う時間が多くなった。
このままでは終われない、もう一度這い上がろうと誓った。
そのためにまず必要なのは、自分のコンディションを元に戻すこと。
過去の良かった時の映像を何度も見て、身体の使い方やイメージを言語化していく。
言語化したものを実践してみる。
実践して良い感覚だったものは継続し、上手くいかなかったことは修正する。
これを繰り返し行うことで、少しでも元通りのコンディションに近づこうとした。
あまり好きではなかった筋トレやストレッチ、体幹も継続的に取り組んだ。
それでもなかなか戻ってこない。
言語化して、実践して、掴んだと思ったものも、次の日に意識してプレーすると上手くいかない。
そんな日々の連続。
正解を見出せない中でもその時の100%を発揮しようと練習に取り組み、怪我や脳震盪での離脱もありながら、幼い頃からの憧れであった選手権の舞台には立つことができた。
でも、自分の特徴や自分の納得のいくパフォーマンスは出せなかった。
何とか自分の本来の姿を取り戻そうとしたが、それはできなかった。
高校サッカーを引退して、大学サッカーが始まるまでの期間も自分の身体と向き合い続けたが、何も取り戻せないまま大学サッカーがスタートした。
最初はBチームにいたが、6月にはAチームに上がり、スタメンで使ってもらっていた。
しかし、7月にアミノの明治戦で左足の第五中足骨を骨折し、手術のため離脱。
ここから、怪我で苦しむ時間が始まる。
中学、高校のときも怪我は少なくなかったが、大学生になってから、より怪我をしやすくなった。
復帰してから数ヶ月後、同じ箇所にヒビが入り離脱。
また復帰してすぐに左肘の内側側副靱帯損傷。
試合中でのアクシデントによる怪我だったが、これはいろんな意味で痛すぎた。
人生で1番の激痛に負け、救急車の中で気を失った。サポートしていただいた真菜さんありがとうございました。
復帰後、久しぶりに長時間のプレーの許可が下りた試合で、後半スタートから入り、10分も経たないうちの負傷で、精神的にもかなり痛かった。
その後も足関節炎、左膝の半月板損傷、肉離れなど、怪我による離脱を繰り返した。
1〜3年生の3年間でいえば、リハビリ組にいた期間の方が長い。
でも、この長いリハビリ期間は自分の身体と向き合う期間として重要であった。
1年生の8月頃、手術後のリハビリ中、トレーナーの原田さんに自分の身体のことを打ち明けた。
それまでは自分の身体の異変について、他人にあまり打ち明けてこなかった。
その理由は、不調の言い訳になると思ったから。
また、この症状を伝えても共感してもらえないから。
人は、共感できないことに対して疑念を抱く生き物。
指導者や仲間に疑念が生じることは、集団スポーツにおいてマイナスの影響が大きいと考えていた。
そんな中で原田さんが真剣に受け止めてくれたことで、少し心が軽くなったのを覚えている。
それから原田さんに協力してもらい、身体を元に戻すための試行錯誤を重ねた。
基本的には筋トレや体幹は継続して強化しながら、原田さんに身体の状態をチェックしてもらって出た、弱い部分の柔軟性や機能性を高めていくという考え方でやっていた。
しかし、少しずつ良くなっているような気がしつつも、根本的な解決はできず、怪我も減らないといった状況が続いた。
大学3年の5月、ようやく自分の不調の原因に辿り着く。
それは、身体の「歪み」。
もともと歪んでいた身体が高校から始めた筋トレによって、強い部分と弱い部分の差が顕著になった。
それによって、身体の歪みが悪化し、さらにバランスが悪くなり、怪我をしやすい身体になっていった。
筋トレで身体が大きくなっていることは実感していたが、それを使える基盤は整っていなかったため、筋トレはただの重りを作り、身体の歪みを悪化させた。
歪んでいる状態での強化と改善は、よりバランスを崩していくことに繋がっていた。
必要だったのは、身体のバランスを整えること。
これに気付いてから、筋トレや体幹をやめて、「歪み」を改善することに取り組んだ。
まず取り組んだのは、関節を適切な位置で、適切に動かせる状態をつくること。
具体的な内容は長くなるので割愛するが、地道にエクササイズを取り組んでいった。
長い間使えていなかったことで凝り固まっていた部分や悪い癖を取り除くのは簡単ではなかったが、少しずつ自分の身体が変わっていくことを実感できた。
特に、身体の重さや切り返しの動きは明らかに改善されていった。
しかし、またここで大きな壁にぶつかる。
それは、昔のプレーの感覚が戻ってこないこと。
身体の歪みは改善されてきたが、自分の思い通りのプレーを出すことが難しかった。
たまに調子がいい日があっても、それに再現性はなく、頭でイメージしているものを身体を使って表現することの難しさを痛感させられた。
「感覚は記憶によって捏造される」
どこかで読んだ本に書いてあった言葉だが、過去を美化してしまい、現在の自分にそれを要求してしまっていた。
そこで、感覚を取り戻すのではなく、新しく作り変えることが必要だと気がついた。
それからは日々の練習や自主練習だけでなく家にいるときも、感覚を言語化し、頭で描いたイメージと身体の動きを繋げることに力を注いだ。
感覚を言語化することは難しく、あの頃の感覚はもう二度と戻ってこないと、折れそうになった日もたくさんあったが、何とかやり続けることができた。
自主練でシュートや1対1をしている場面をよく見かけたと思うが、あれは感覚を新しく作り変えるために試行錯誤を重ねる時間だった。
付き合ってくれたGK陣(特につかさ)、安藤には感謝です。ありがとう!
ここまでの話、ほとんどの人が何言ってんだこいつと思うだろう。
自分でも思う。
でも、本当の話です。
苦しかったし、難しかった。
それと同時に、自分の可能性を探り続ける楽しい時間でもあった。
引退までに完全な状態を作り上げることができず、悔しさはあるが、日を追うごとに良くなっている感触はあったし、再現性のあるものになっていった。
特に最後の1年は、ここ5年間では最高の状態であったし、それを更新し続けられた。
身体と感覚がなかなか戻らず、大学でサッカーは終わりにしようと思って始めた就活。
少しずつ良くなってきて、まだやれると思わせてくれた。
タカさんの後押しもあって、最後までプロに挑戦することができた。
身体も感覚もまだまだ伸びしろだらけだし、プレーヤーとして成長できる感覚もすごくある。
舞台はどこであれ、サッカーは続けるだろう。
これからも自分の身体と感覚がどこまで行けるのか追求していこうと思う。
身体とか感覚の話をし過ぎました。
引退ブログ
題名:「ALL OUT」
大東文化大学サッカー部副キャプテンの井原充葵です。
はじめに、2024年シーズン、大東文化大学サッカー部を応援していただいた皆様に心より感謝申し上げます。
チームが目標に掲げていた「関東昇格」は達成できませんでしたが、皆様の支えがあり、最後まで戦い抜くことができました。
これからも大東文化大学サッカー部の応援をよろしくお願いいたします。
ついに、引退ブログを書く時が来ました。
何を、どう書くか。すごく悩みました。
結果、全部書くことにしました。
自分自身の想いや葛藤。チームへの想い。先輩、後輩への想い。
そして、将来の自分のために書きます。
社会に出て、苦しい時、辛い時、高い壁にぶつかって折れそうな時、この引退ブログを振り返って、もう一度頑張ろうと思える。将来の自分の原動力となるようなブログにしたいと思います。
大学2年生の終盤からサッカーノートを書いていました。
そのおかげで当時の状況や感情をこと細かく振り返ることができました。
その結果として、ものすごく解像度の高い内容となっています。
また、2024シーズンのスローガン
「ALL OUT」
この引退ブログにおいても体現させていただきました。
そのため、非常に長い文章となっております。
それでも、全てを出した文章ですので、ぜひ読んでいただきたいです。
よろしくお願いします。
「日常からの質の高い取り組みが未来を変える」
高校時代にお世話になったからいただいた言葉。そして、自分が大切にしている考え方だ。この言葉のおかげで、なんかやる気が出ない日も、落ち込んで立ち上がるのが難しい日も、何とか前向きに取り組むことができた。
大学4年間、楽しさや嬉しさより、苦しさや悔しさの方が圧倒的に多かった。
入学前の3月終盤、初めての練習参加はAチームの公式戦の前日だった。
そこで感じたのは、高校の時とは圧倒的に違う温度感。本当に次の日が公式戦なのかわからなかった。
進路選択のところが上手くいかなかったため、多少の覚悟はしていたが、自分が待ち望んでいたものとはほど遠い環境に絶望したのを覚えている。
入るところを間違えたと何度も思った。
高校サッカーを悔しい気持ちで終えた自分は、見返したい、プロになりたいという思いで、大学でもサッカーを続けることを選択した。
この環境ではそれは不可能なことだと思った。
こうして始まった大学サッカーも気づけば終わりを迎えていた。
結果、プロにはなれなかったし、チームの目標であった関東昇格も達成できなかった。
何も成し遂げられなかったことに対して、悔しさは当然ある。
あの時こうしていれば、、、
もっと早く気づいていれば、、、
そういう思いもたくさんある。
それでも、どこか清々しい気持ちの自分がいる。
それはこの4年間、目標に向かって本気でやり続けたと自信を持って言えるから。
悔しさを受け入れて、次のステージで、次こそは成し遂げようと意気込んでいる自分がいる。
これだけでも成長したなと自分ながらに思う。
この大学4年間は、自分とチームの両方を成長させることに向き合った。
まず、自分の話。
高校2年生の秋ごろ、トレーナーにキックのフォームが悪いことを指摘されてから、自分の身体がおかしくなっていることに気がついた。
調子の悪さは感じていたが、ちょうど試合に出られていない時期で、メンタル的にも難しかった期間であったから、不調の原因は単純に調子が悪いとか力不足だと思っていた。
でも、その指摘を受けてから自分の身体の異変を感じ取ることが多くなった。
ボールタッチの感覚が気持ち悪い。
イメージ通りのボールが蹴れない。
当たり前にできていたプレーができない。
止まりたいのに止まれない。
切り返しが重い。
頭のスピードに身体が追い付かない。
すぐに身体が重くなる。
調子は全然上がらないし、状況はどんどん悪化していく。
身体の異変の原因はわからない。
自分の思い通りのプレーができなくなり、試合にも出られていない状況。
自分が思い描いていたキャリアを歩めていないことに対して、悔しさが大きかった。
サッカーがつまらないと初めて思った。
そんな中でコロナ禍に突入し、必然的に自分と向き合う時間が多くなった。
このままでは終われない、もう一度這い上がろうと誓った。
そのためにまず必要なのは、自分のコンディションを元に戻すこと。
過去の良かった時の映像を何度も見て、身体の使い方やイメージを言語化していく。
言語化したものを実践してみる。
実践して良い感覚だったものは継続し、上手くいかなかったことは修正する。
これを繰り返し行うことで、少しでも元通りのコンディションに近づこうとした。
あまり好きではなかった筋トレやストレッチ、体幹も継続的に取り組んだ。
それでもなかなか戻ってこない。
言語化して、実践して、掴んだと思ったものも、次の日に意識してプレーすると上手くいかない。
そんな日々の連続。
正解を見出せない中でもその時の100%を発揮しようと練習に取り組み、怪我や脳震盪での離脱もありながら、幼い頃からの憧れであった選手権の舞台には立つことができた。
でも、自分の特徴や自分の納得のいくパフォーマンスは出せなかった。
何とか自分の本来の姿を取り戻そうとしたが、それはできなかった。
高校サッカーを引退して、大学サッカーが始まるまでの期間も自分の身体と向き合い続けたが、何も取り戻せないまま大学サッカーがスタートした。
最初はBチームにいたが、6月にはAチームに上がり、スタメンで使ってもらっていた。
しかし、7月にアミノの明治戦で左足の第五中足骨を骨折し、手術のため離脱。
ここから、怪我で苦しむ時間が始まる。
中学、高校のときも怪我は少なくなかったが、大学生になってから、より怪我をしやすくなった。
復帰してから数ヶ月後、同じ箇所にヒビが入り離脱。
また復帰してすぐに左肘の内側側副靱帯損傷。
試合中でのアクシデントによる怪我だったが、これはいろんな意味で痛すぎた。
人生で1番の激痛に負け、救急車の中で気を失った。サポートしていただいた真菜さんありがとうございました。
復帰後、久しぶりに長時間のプレーの許可が下りた試合で、後半スタートから入り、10分も経たないうちの負傷で、精神的にもかなり痛かった。
その後も足関節炎、左膝の半月板損傷、肉離れなど、怪我による離脱を繰り返した。
1〜3年生の3年間でいえば、リハビリ組にいた期間の方が長い。
でも、この長いリハビリ期間は自分の身体と向き合う期間として重要であった。
1年生の8月頃、手術後のリハビリ中、トレーナーの原田さんに自分の身体のことを打ち明けた。
それまでは自分の身体の異変について、他人にあまり打ち明けてこなかった。
その理由は、不調の言い訳になると思ったから。
また、この症状を伝えても共感してもらえないから。
人は、共感できないことに対して疑念を抱く生き物。
指導者や仲間に疑念が生じることは、集団スポーツにおいてマイナスの影響が大きいと考えていた。
そんな中で原田さんが真剣に受け止めてくれたことで、少し心が軽くなったのを覚えている。
それから原田さんに協力してもらい、身体を元に戻すための試行錯誤を重ねた。
基本的には筋トレや体幹は継続して強化しながら、原田さんに身体の状態をチェックしてもらって出た、弱い部分の柔軟性や機能性を高めていくという考え方でやっていた。
しかし、少しずつ良くなっているような気がしつつも、根本的な解決はできず、怪我も減らないといった状況が続いた。
大学3年の5月、ようやく自分の不調の原因に辿り着く。
それは、身体の「歪み」。
もともと歪んでいた身体が高校から始めた筋トレによって、強い部分と弱い部分の差が顕著になった。
それによって、身体の歪みが悪化し、さらにバランスが悪くなり、怪我をしやすい身体になっていった。
筋トレで身体が大きくなっていることは実感していたが、それを使える基盤は整っていなかったため、筋トレはただの重りを作り、身体の歪みを悪化させた。
歪んでいる状態での強化と改善は、よりバランスを崩していくことに繋がっていた。
必要だったのは、身体のバランスを整えること。
これに気付いてから、筋トレや体幹をやめて、「歪み」を改善することに取り組んだ。
まず取り組んだのは、関節を適切な位置で、適切に動かせる状態をつくること。
具体的な内容は長くなるので割愛するが、地道にエクササイズを取り組んでいった。
長い間使えていなかったことで凝り固まっていた部分や悪い癖を取り除くのは簡単ではなかったが、少しずつ自分の身体が変わっていくことを実感できた。
特に、身体の重さや切り返しの動きは明らかに改善されていった。
しかし、またここで大きな壁にぶつかる。
それは、昔のプレーの感覚が戻ってこないこと。
身体の歪みは改善されてきたが、自分の思い通りのプレーを出すことが難しかった。
たまに調子がいい日があっても、それに再現性はなく、頭でイメージしているものを身体を使って表現することの難しさを痛感させられた。
「感覚は記憶によって捏造される」
どこかで読んだ本に書いてあった言葉だが、過去を美化してしまい、現在の自分にそれを要求してしまっていた。
そこで、感覚を取り戻すのではなく、新しく作り変えることが必要だと気がついた。
それからは日々の練習や自主練習だけでなく家にいるときも、感覚を言語化し、頭で描いたイメージと身体の動きを繋げることに力を注いだ。
感覚を言語化することは難しく、あの頃の感覚はもう二度と戻ってこないと、折れそうになった日もたくさんあったが、何とかやり続けることができた。
自主練でシュートや1対1をしている場面をよく見かけたと思うが、あれは感覚を新しく作り変えるために試行錯誤を重ねる時間だった。
付き合ってくれたGK陣(特につかさ)、安藤には感謝です。ありがとう!
ここまでの話、ほとんどの人が何言ってんだこいつと思うだろう。
自分でも思う。
でも、本当の話です。
苦しかったし、難しかった。
それと同時に、自分の可能性を探り続ける楽しい時間でもあった。
引退までに完全な状態を作り上げることができず、悔しさはあるが、日を追うごとに良くなっている感触はあったし、再現性のあるものになっていった。
特に最後の1年は、ここ5年間では最高の状態であったし、それを更新し続けられた。
身体と感覚がなかなか戻らず、大学でサッカーは終わりにしようと思って始めた就活。
少しずつ良くなってきて、まだやれると思わせてくれた。
タカさんの後押しもあって、最後までプロに挑戦することができた。
身体も感覚もまだまだ伸びしろだらけだし、プレーヤーとして成長できる感覚もすごくある。
舞台はどこであれ、サッカーは続けるだろう。
これからも自分の身体と感覚がどこまで行けるのか追求していこうと思う。
身体とか感覚の話をし過ぎました。
まだまだ終わりません。
3年生から2シーズンに渡って、副キャプテンを務めさせていただいた。
副キャプテンを打診されたのは、下級生の頃から試合に出させていただいたり、よーじさんとチームのことについて話す機会が多かったりしたからだと思う。
入部当時は、自分が待ち望んでいたものとはほど遠い環境に絶望していた。
6月頃から試合に出場させてもらい、少しずつモチベーションを高めていた中での長期離脱。
このサッカー部で自分がプレーする意味をあまり見出せずにいた。
そんな中で約2ヶ月の離脱から戻ってきた9月中旬、練習が終わった瞬間にほとんどの先輩や同期がすぐに帰っていく中で、璃空、巧、見目、笠井(福島と伊東もいたかな)が残って自主練習をしていた。
正直、自主練習をすることはすごいことでも何でもない。でも、このチームにおいては珍しく、自分にとって希望となり得るものだった。
このメンバーとなら、上を目指せるかもしれないと感じた瞬間であった。
それから、チームが強くなるためには何が必要なのかを考えることが多くなった。
高校時代に日本一を本気で狙うチームで過ごしたこともあって、ギャップや足りないものはものすごく感じていた。
そこで気づいたことや考えをよーじさんにたくさんぶつけていた。
1,2年生の頃からいろんなことに取り組んでおけば、もっと良いチームを作れたと今は思うが、当時のチームの状態や自分の力量を考えるとそれは不可能だったとも思う。
チームとして問題はたくさんあり、全て挙げているときりがないが、一番の問題はサッカーに対するモチベーションの低さだったと思う。
練習開始の5分前に来て、ろくにアップもせずにダラダラとふざけた会話をして練習に入っていく。そういう選手に合わせたアップをして、スイッチも全く入らない。ただでさえ練習の質が低いのに自主練習もしない。
試合に負けても、調子が悪くても、ミスをしても反省せず、なんとなく次の試合を迎える。
そういう選手が上級生、Aチーム、スタメンにも多くいる状況。
当時の自分が何かを言って変わるレベルの問題ではなかった。
チームは、1年生のときに東京都2部リーグへ降格し、1年で1部リーグへと帰ってきた。
2部リーグでは19勝1敗と圧倒したわけだが、内容で見れば圧倒できた試合は少なく、個の優位性で何とか勝っているという印象だった。
個人としては、怪我で外から見る機会が多かったが、チームとして積み上げているものや成長しているものは全く見えなかったし、2部で圧倒したから1部でも勝てるなんてとても思えない状況であった。
でも、新チームで戦った東京カップで優勝し、天皇杯予選では早稲田大学とPK戦まで持ち込めたことで、少しの自信には繋がったかな。その健闘を裏付ける取り組みはあまりなかったが。
そうこうしているうちに、副キャプテンを務めることになった。
1部リーグ復帰初年度であったが、関東3部ができ、1部の上位チームが昇格していったことで、関東昇格のチャンスは十分にあった。
自分たちが関東の舞台でプレーするために、
強いチームをつくるために、
大学内でのサッカー部の価値を高めるために、
関東昇格は何が何でも達成したいと思っていた。
前期リーグ無敗で首位。
アミノでは関東3部所属の東京経済大学を倒し、関東1部の東京国際大学には負けたが良いゲームをできた。
この期間、副キャプテンとして何かはしていたと思うが、ほとんど覚えていないので大したことはしていないと思う。
チームとして失点が少なかったことが好調の要因だった。
練習のぬるさや得点シーンの再現性の低さなど、課題もたくさんあったが、勝っているからいいかという雰囲気があった。
これが、後期苦しむことに繋がる。
アミノが終わり、リーグ戦が再開してから帝京と朝鮮に連敗をした。
シーズン初の敗戦、そして連敗に、前期でつけた自信が一気に崩れた。
前期リーグは勝っていることを良しとして、チームとしての取り組みや積み上げ、ディテールに強くこだわってこなかった。
それによって、チームに迷いが生じたときに立ち返る場所がなかった。
悔しさより、焦りの方が大きかった。このままでは関東昇格だけでなく、参入戦出場も危うくなる。
当時のチームの取り組み、戦い方の限界を感じ、根本的にチームを変えていくことが必要だと思った。
キャプテンの哲太くんにお願いして、幹部で話し合いを行い、そこでまとめた意見をよーじさんに伝えた。
いろんな意見があったが、以前から一番の問題であったサッカーに対するモチベーションの低さに向き合うことが必要というのがメインだったと思う。
一人ひとりのサッカーに対する熱量や向き合い方が変わらないと関東昇格には届かないと考えた。
具体的に取り組んだことは大きく2つ。
一つ目は、ミーティングの開催。
監督が映像を使って行う戦術的なミーティングと選手のみで週初めに先週の練習や公式戦の振り返りを行うミーティングの2種類を設定した。
戦術的なミーティングは、戦い方を共有し目線を揃えること、毎週振り返りをすることで積み重ねることを目的としていた。
選手ミーティングは、それぞれの想いや目標を共有することで一体感を作りだすこと、一人ひとりがみんなの前で発言することで覚悟や責任感を持たせることに繋がると考えていた。
二つ目は、練習が始まる前に各自でウォーミングアップをすること。
練習開始5分前に来る選手やダラダラふざけた会話だけをして練習に入る選手を無くし、身体的にも精神的にも全員が整った状態で練習に臨む環境をつくることが目的だった。
どちらの取り組みも特別なことではない。おそらく多くのチームでは当たり前にやっていること。
でも、当時の大東サッカー部はそれさえできていなかった。
まず、当たり前の基準を少しずつ高めていくことからスタートした。
夏合宿なども経て、課題と向き合うことや積み上げることを意識して取り組めるようになってきた。チームとして少しずつ成長している感じもあった。
夏の中断期間が終わり、リーグ戦が再開。
勝てない。
失点が多い。
とにかく勝てない。
2つの取り組みも想定していたような効果が出ない。
3位でぎりぎり参入戦に進出できたが、前半戦の貯金がなければ厳しかった。
いろんな課題に直面して、頭を悩ませているうちに参入戦がスタートした。
1勝1分け3敗の最下位。
関東昇格の目標は達成できなかった。
目標が達成できなかったこと、関東の舞台でプレーすることが叶わなかったことへの虚しさは半端じゃなかった。
でも冷静に考えて、昇格に値するチームではなかった。
大事な試合で隙を作ってしまう脆さ、弱さ、責任感の無さ。そして、一体感の無さ。
試合では日々の練習での取り組みが現れると改めて痛感した。
それと同時に自分への不甲斐なさも強く感じた。
パフォーマンスもそうだが、1年間チームの先頭に立ちながらも、チームを変えることができなかった。このままでは勝てないことに気づきながらも行動に移せなかった。本気になるのが遅かったし、本気になっているようで、なりきれていなかった気もする。
哲太くんへの申し訳なさも強かった。キャプテンとして、熱い気持ちをピッチ内外で表現して、不満を抑えて、自分の意見もたくさん聞いて、受け入れてくれた。
哲太くんの偉大さを4年生になってからものすごく感じた。
怪我を抱えていたこともあって、参入戦後はすぐに離脱した。
いろんな想いを上手く消化できないまま、シーズンが終わった。
冬の長期オフが終わりに向かい、新シーズンが始まる前の1月12日。
よーじさんとタカさんに呼び出され、新キャプテンの巧と大学近くの市の施設に向かった。
自分と同じく副キャプテンの見目も呼ばれていたが、前日に遊びすぎて体調不良になり来なかった。
そこで監督交代を伝えられた。
大学ラストシーズンでの監督交代に戸惑いと不安はあった。
タカさんは他のチームの指導者と兼任していた関係で、練習に来られない日もある。
その日の練習は誰がどうコントロールするのか、チームがうまく回らないのではないかなど、懸念点も多くあった。
一方で、関東昇格を達成するためにはチームを大きく変える必要があった。
その変化の1つとして監督交代があるのならば、それも受け止めて前に進んでいかないといけないと思った。
自分たちが関東の舞台でプレーすることが叶わなかったことへの悔しさは大きく、切り替えるのも簡単ではなかった。
でも、それを引きずって歩みを止めることの方がダサいと思ったし、何よりプライドが許さなかった。
高校の同期や同じリーグで戦っていたライバルのほとんどは関東リーグや地方のトップリーグで鎬を削っている。
大東に来て、何も結果を残せずに終わるわけにはいかなかった。
今の自分たちにできることは、大東を新たなステージへ連れていくこと。
そのために、自分にできることはすべてやる。
強い覚悟と責任感を持ってラストシーズンを迎えた。
結果から。
アミノバイタルカップ 予選敗退
リーグ戦 14勝4分4敗 3位
参入戦 1分4敗 最下位
チームの目標であった関東昇格は達成できなかった。
リーグ戦の勝ち点は前年を上回ったが、それ以外は下回った。
結果を見れば惨敗。
大東を新たなステージへ連れていくことはできなかった。
責任をすごく感じているし、自分の力のなさを痛感している。
それでも、与えられた時間の中で最大限努力したと自信を持って言える。
それぐらい全部出し尽くしたシーズンだった。
シーズンの最初に取り組んだことは、チームの目標から現状を見たときの課題をあぶりだすこと。
たくさんありすぎて具体例を挙げているときりがないのでここではやめておく。
そして、課題に対しての改善方法を考える。
ここにかなりの時間をかけた。幹部で何度もミーティングを重ねた。
改善方法だけでなく、優先順位やタイミングも論理的に考えながら、新しいルールやチームの求める基準を定めていった。
部則を作り直し、係構成を変え、スローガンを決め、ウォーミングアップにも手を加えるなど、昨年との変化は大きくあった。
それをパワーポイントでスライドを作成し、全体ミーティングで伝えた。
決めたルールと、なぜ新しくしたのか、なぜ変えたのかをできるだけわかりやすく、丁寧に伝えることを意識した。
そして、新たなルールでチームが動いていく。
実際にやってみて感じたことは、作ったルールを運用することの大変さであった。
前年の経験もあって、新しく作ったルールが浸透するまでには少し時間がかかるから、しっかりと全体に浸透するまでは言い続けようと覚悟を決めていたが、その苦労は自分たちの想定を上回るものであった。
できるだけわかりやすく、丁寧に伝えたはずの内容があまり正確に伝わっていない。
最初はルールを守って取り組んでいたが、時間の経過と共に適当になってくる。
常に先頭に立って行動し、厳しいことも言い続けないといけない。
いろんな苦労がある中で一番頭を悩ませたのは、「やらされている感」。
幹部が作ったルールを強制的にただやらされている感じがして、やる気が出ない、付いていけないといった声があった。
正直、当時の自分には意味がわからなかった。
ルールは、チームの目標である関東昇格を達成するために必要なことを考えに考え抜いて作った。
別に自分が作りたくて作っているわけではない。
そんなルールがなくたって、自分にとっては当たり前にクリアしていることばかりだったから。
もっと言えば、チームの現状をしっかりと捉えて、基準は理想よりかなり下に設定していた。
厳しいルールでもないし、厳しい声掛けをしているわけでもない。作った理由もちゃんと説明している。
それでも出てくる不満の声にどうマネジメントしていくかを悩んだ。
不満を言わずに、ルールを理解して付いてきてくれと言えば、モチベーションの高い選手が目標に向かって真剣に取り組める環境づくりができる。
一方で、そうでない選手からの信頼はなくなり、モチベーションの高い選手と低い選手との差は広がり、チーム全体の一体感を作ることは難しくなる。
悩んだ結果として、チーム全員がモチベーションを高く取り組めるように、ある程度の基準は設定しながらも、モチベーションの低い選手にも寄り添うことを選択した。
一体感のあるチームを作りたいというのが、その選択の大きな理由。
それからは、厳しさは持ちながらも、指摘する前にまず自分が行動して背中で見せることをより意識して、声掛けするときには相手がどういう状況で、何を思っているのかを考えるようになった。
いろんな苦労がありながら始まったリーグ戦は順調に勝ち点を積み上げていった。
シーズン中も幹部で何度もミーティングをして、チームの課題と向き合い続けた。少しずつではあるが、当たり前の基準も高まってきている感覚があった。
また、サッカー面でも前年より確実に狙いを持って、積み上げながらできていた。
しかし、前期の終盤から勝てない、上手くいかない試合が続いた。
夏の中断前には成蹊に負け、帝京には大敗した。
また、就活を終えた4年生が次々に辞めていった。就活で練習にあまり参加できなくてもAチームでプレーして、公式戦にも出場していた選手も辞めていった。
4年生は同期ということもあって、かなり気にかけて接していた。就活との両立の大変さも理解できたし、最後まで一緒に戦いたいという思いもあった。また、上級生がチームに与える影響は大きいと考え、歴代の大東サッカー部は学年が上がるにつれてだらけてくる傾向があったから、自分たちの代でそれを変えたかった。
そのために、Aチームに所属している4年生だけでなく、Bチームに所属している4年生の存在も重要だと考えていた分、ダメージも大きかった。
上手くいかない時期でもブレないことが重要だと思いつつも、この2つの出来事は自分たちの考えを変えるきっかけには十分すぎた。
何より前年と同じ失敗を繰り返すわけにはいかなかった。
基準を高く設定し、モチベーションが低い選手への寄り添いを止め、モチベーションが高い選手がそれを維持、または向上していけるようなチーム作りをする。
チームのために行動できない、戦えない選手はAチームには置かない。
大学サッカーは強制じゃない。辞めたいならやめればいい。本気でやりたい奴だけが残ればいい。そういう思いもあったのかもしれない。
参入戦まで残り3ヶ月を切った中で、定数と変数を見極め、時間と力をどこに割くべきかを考える必要があった。
夏の中断明けからBチームに対して干渉することをほとんどしなくなったことに対して、申し訳なさもあったが、そこに割ける時間と力はないと判断した。
また、モチベーションが低い人のモチベーションを高めることは難しいと考えた。
このように、夏の中断明け以降はチーム作りの方向性を変えていった。
今シーズンは、サッカーの戦術面に関してもかなり介入していた。
自分たちのコンセプトを定めるところや修正についても、タカさんとほぼ毎日議論しながら行っていた。
正直、選手が監督へ意見することに葛藤はあったが、後悔したくなかったし、できることは全てやりたかったから、戦術面に関しても深く介入した。
これが実現できていたのは、タカさんがそれを受け入れてくださったから。
その責任の大きさを理解していたから、生半可なサッカー理解やチームへの理解で取り組むわけにはいかなかった。
とにかくいろんなチームの試合をたくさん観た。気になったシーンを何度も繰り返して見て、何か自チームに取り入れられるものはないかを考えて、サッカー理解を高めることに取り組んだ。
また、大東の試合もめちゃくちゃ観た。オフの日でも観て、課題を挙げて、改善方法を考えて、タカさんにどういうプレゼンをするかを考える。
参入戦では相手の分析も行った。相手の特徴を捉えて、それに対して自分たちが何をするべきかまで考え、タカさんにプレゼンをした。
大変ではあったが、サッカー理解もどんどん高まるし、楽しくもあった。
ピッチ内外で、参入戦を勝ち抜いて関東昇格を達成するために、できることは全てやることを意識して取り組んだ。
そして迎えた参入戦。
一度は諦めた応援は、笠井が団長を引き受けて、引っ張ってくれた。
勝たなくては終わりとなった東京学芸戦では、上武戦での大敗を受け、タカさんと璃空と話し合い、守備のやり方を変えた。
それが上手くハマったのもあり、全員がとにかく気持ちを出して戦っていたのもあり、負けはしたが、これが大東サッカー部だと自信を持って言えるゲームができた。
試合終盤の応援も含め、最後の最後にやっと納得のできるゲームができた。
それでも参入戦を最下位で終え、目標達成はできなかった。
引退してからも何が足りなかったのか、どうすれば良かったのかを考えさせられる時間はしばらく続いた。
たくさん思いつくが、1つはチーム作りの方向性の選択ミス。
一体感のあるチームをつくるために選択したのに、寄り添った選手は辞めていき、モチベーションのところにもあまり変化は加えられず、一体感は感じられなかった。
でも、これが上手くいかなかった理由も、「やらされている感」を感じていた選手の気持ちも今は理解できる。
何に動機づけられるのかは人それぞれであるからだ。
大学でサッカーを続けている理由も、サッカーが好きな理由も、どうすればモチベーションが高まるかも人それぞれ異なる。
それを自分自身の感覚や経験値をもとに、頭の中で論理的に考えて、誰かに伝えても動機づけを伝授することはできない。何に動機づけられるのかを本人もわかっていないケースも多くある。
また、自分自身はAチームで試合に出場していて、関東昇格に届かなかった瞬間をピッチで味わったから、関東昇格の目標設定は当たり前で、身近な存在に感じられる。そこに到達するために必要なプロセスも見えている状態だからこそ、モチベーションも高い。
一方で、そうではない選手からすると、チームが関東昇格を目標に掲げているのを理解しつつも、実感することは難しい。どういうプロセスを踏めばたどり着けるのか、自分がそこにどう関われるのかが見えにくい部分があると思う。目標へのプロセスが見えないと、目標へ向かうこともできない。実感できないものや見えないものをモチベーションにすることは難しい。
だから、全員が関東昇格の目標に向かってチームのために行動していくのは難しいし、「やらされている感」を感じてしまう選手が出ることも理解できる。
これは、あるマネジメントの本を読んで学んだ。
あの時、上の人の基準でチームを進めていくことを選択していれば、、、。
それはそれでいろんな苦労があっただろう。
当時は、一定以上の基準を設定して、そこに達せない選手は切り捨てるというのは、リーダーとしては逃げ、簡単な道だと思っていた。
だから難しい道だと思った方を選択したというのもある。
でも今思えば、不満が募って信頼を失うことが怖くて、ただ逃げただけなのかもしれない。
チームを大きく変え、前に進んでいくためには、ある程度の犠牲は必要だった。
一定以上の基準を設定して、そこに達せない選手は切り捨てる。
言い方は少し残酷だし、不満も必ずたくさん出るし、大学サッカーで、大東のレベルでそこまでやる必要があるのかという声も上がっただろう。何人がそれに賛同してついてきてくれるのかわからない。
それでも自分を信じてついてきてくれる人がいるかもしれない。きっといたと思う。
仲間を信じきれなかったし、自分にその勇気がなかった。
また、戦術面に介入していた立場として、サッカー理解の足りなさや想定の甘さ、戦術を全体に浸透させることの難しさを感じた。
ピッチ内外の両方に強く関わり、自分にできることは全部やってきたからこそ、目標を達成できなかったことへの責任を強く感じている。
ここまで、自分ひとりでチームのことについて考えて行動してきたみたいに書いてきましたが、当然そんなことはありません。
キャプテンの巧、副キャプテンの見目、璃空、時には勇人コーチやりゅうせい、とうあ、こうき、最後の方は大畑ともチームについて会話し、その中からいろんなヒントをもらっていた。
特に、巧と璃空とは練習後のグラウンドや部室でずっと話し合っていた。
チームに対して本気で向き合って、議論できる仲間が同期にいて本当に良かった。
幹部ミーティングも何度もやった。見目はいつも早く帰りたそうにしていたし、いないときも多かったけど。
もちろん、タカさんとよーじさんともたくさん話した。
多くの人と協力してやり遂げられたシーズン。
最後まで付いてきてくれたみんなには感謝しかない。
副キャプテンを務めた2年間は、
常に本気でチームのことについて考え、向き合った。
辛さ、苦しさ、難しさ、自分の力の無さを感じた。
一人の人間として大きく成長できた。
何一つ結果は残せなかったし、大変ではあったが、副キャプテンとして最後まで駆け抜けることができて良かった。
長くなりました。
そろそろまとめに入ります。
絶望からスタートした大学サッカー。
高校の同期とは一度も対戦できなかったし、関東リーグのチームと対戦できたのは片手に収まる回数。
同じ土俵に立てないことに悔しさしかなかったけど、自分が選んだ環境で、自分なりの最大限の努力ができた。
プロになるため、サッカー選手として成長するためには、もっとレベルの高いチームに進んだ方が良かったと思う。
でも、大東でなければ経験できなかったこと、身につけられなかった考え方や力がたくさんある。
目標を達成するために環境を選ぶことは重要だと思う。
でも、もっと重要なのはどんな環境でも自分に矢印を向けて、目標に向かって日々努力をし続けること。
多くの逆境を跳ね返して、自分が選んだ道を正解にするという強いメンタリティ。
その過程で得られるものはかけがえのないものであると思う。
大東サッカー部に入って良かった。今はそう思える。
「日常からの質の高い取り組みが未来を変える」
自分の身体と感覚、チームと向き合い続けた4年間。
よくやった。
もっとできた。
両方の感情があるが、きっと良い方向に未来を変えることができたと思う。
でもまだまだ足りない。もっと高められる。
未来を変えるために、質の高い取り組みを積み重ね続ける。
これからは勉強もしてみようかな。
あまりやってこなかったけど、DNA的にはできるはず。
次のステージでは絶対に結果を残してやる。
ここからはお世話になった方々に感謝の言葉を伝えさせてください。
タカさん
ただひたすらに熱く、直向きに、真摯にチームに対して向き合う姿勢に、何度も心を動かされました。
指導者に対して、この人のために勝ちたいと素直に思えたのはタカさんが初めてでした。
自分が何を言っても受け入れて、一緒に考えていただいたから、最後までやりきることができました。
生意気なことばかり言ってしまい、すいませんでした。
タカさんに背中を押され、プロへの挑戦をしていなければ一生後悔していたと思います。
2年間お世話になりました。焼肉楽しみにしています。
ありがとうございました。
よーじさん
大東サッカー部に時間も力も使いすぎて、睡眠時間やプライベート等は問題ないのか気になりますが、よーじさんが支えてくれていたおかげでチームは前に進んで来られたと思います。
監督を務めていただいた3年間は、ピッチに立てない時間が多く、迷惑をかけました。
自分がどんな状況でも信じて使い続けていただいたこと、感謝しかないです。
よーじさんにとって、自分は面倒くさい存在でもあったと思いますが、最後まで一緒に戦っていただきありがとうございました。
いつか笑って思い出話ができる日を楽しみにしています。
立原さん
直接関わる機会は少なかったですが、GKコーチや運営面でチームを支えていただきありがとうございました。
チームがさらに上の舞台で戦うためには立原さんの存在は必要不可欠だと思います。
これからも大東サッカー部をよろしくお願いします。
TikTokも応援しています。
原田さん
何度もお世話になりました。
原田さんには、自分の素直な想いや葛藤を誰よりも話していたと思います。
何でも打ち明けられる安心感がありました。
いつも温かく聞いていただきありがとうございます。
自分の身体が少しずつ良くなり、最後の1年を大きな怪我なく戦えたことは原田さんのお力添えがなければ実現しませんでした。
イクメンなところも尊敬です。
本当にありがとうございました。ごはんの連絡待ってます!
永瀬さん
永瀬さんのマッサージは悲鳴無しでは乗り切れません。揉み返しがこないぐらいで調整しておいたっていう言葉もありましたが、揉み返しの痛さを感じながら公式戦に出場したこともありました。笑顔で悲鳴をあげているのを見ていることに怖さも感じましたが、楽しい時間でもありました。
いつも身体のケアをしていただいてありがとうございました。
もっと成長します。ごはんの連絡待ってます!
後輩たちへ
最後まで付いてきてくれてありがとう。
多くの選手にとっては面倒で、怖くて、嫌な存在だったと思います。
就活の面接で「君の表情や雰囲気は人を緊張させる」と言われたこともあり、最後の方は明るさや柔らかさを出すことを意識していました。ちょっとは伝わっていたかな。
話しかけてくれる選手やサッカーについて聞きに来てくれる選手も少しずつ増えてきて嬉しかったです。
みんなに伝えたいのは、チームのために行動できる選手になってほしいということ。
その時に自分が置かれた状況でチームのために何ができるのか。それを考えて実行できる人間になってほしい。
特に全員で戦う公式戦。
ピッチに立つ選手は、みんなの想いを背負って、とにかく戦う。
ベンチに入る選手は、声をかけて支えながら、しっかりと準備をする。
スタッフは、チームを勝利に導けるように選手を支える。
応援に来ている部員は何をすべきだろうか。
今シーズンを振り返ってほしい。自分が何をしていたのか。チームのためにすべき行動をとれていたのか。
応援として来ているみんなのすぐ近くには、いつも支えてくれている保護者が、OBが、もしかしたら大東サッカー部に入りたいという選手が見に来ているかもしれない。直接は関係ないけど大東を応援してくれている人やただ立ち寄っただけの人もいるだろう。
そういう人たちが不快になるような行動はチームにとってマイナスでしかない。
どこにいてもチームの看板を背負っているということを忘れないでほしい。
そして、どんな状況でも、自分が置かれた立場でチームのために行動できる。そういう部員が一人でも増えてほしい。
自分が置かれた立場で、全員がチームのために戦う。それが一体感を作りだし、チームに大きな力を与える。
みんなが応援したくなる、支えたくなる、そんな「愛されるチーム」を作ってほしい。
自分たちが達成できなかった関東昇格をみんなが成し遂げることを楽しみにしています。
いつか応援に行きます。多分。
最後まで全力でがんばれ!
マネージャーへ
いろんな難しさや葛藤がそれぞれにある中で、最後までチームを支えてくれてありがとう。
マネージャーやスタッフたちが、大学でサッカー部に所属することの意味や、やりがいを感じられる環境づくりをもっと進めたかったけど、あまり取り組めなくて申し訳ないです。
ゴールが決まって喜ぶシーンや惜しいシュートに頭を抱えるシーンが映像に写っていて、一緒に戦ってくれていることに嬉しくなりました。
マネージャーも一緒に戦う仲間です。チームが目標達成するために何ができるのかを考えて、支えるだけでなく、自ら先頭に立つことにも挑戦してほしいなと思います。
これからも選手たちを支え、一緒に戦ってほしい。応援しています。
同期へ
みんなが同期で良かった!4年間ありがとう!
そして、辞めていった同期たちへ
チームを引っ張る立場としては腹立たしいことも多かったけど、みんなと一緒に戦った時間も大切な思い出です。
いつか笑って語り合える日があれば、全力で楽しもう。
勇人コーチ
頑固で、流経だからか意見が合わないことも多かったけど、自分の考えと信念をしっかりと持って、勇人なりにチームに向き合ってくれていたのはすごく感じていた。
勇人が指導した選手がこれから活躍するのが楽しみです。
3年間チームを支えてくれてありがとう。
りゅうせい
サッカーのことについて話しても伝わっていないのは感じていました。
何回か辞めようかなって言っていたけど、辞めなくて良かったよね?
背番号2のFW、似合っていたよ。
たくさん競って、走ってくれてありがとう。
かいと
初めて会った同じ誕生日の人。そして、イケメン。
長期離脱の間に同期がたくさん辞めていった中でも最後までやり続けてくれた。
かいとみたいな選手がチームには必要だし、その姿に影響を受けた後輩は多いと思う。
最後に一緒にプレーできて良かった。
あいる
常に声を出して盛り上げてくれるから、チームの雰囲気作りはあいるにかなり頼っていた。
予想できないプレーを見ているのも楽しかった。
難しい時期もあったと思うけど、それを乗り越えて、最後まで一緒に戦えてよかった。
ともき
お調子者で、適当な部分もたくさんあるけど、ピッチに立てば真剣に、熱く戦ってくれる。
ともきが交代で入ってきたら何かやってくれる感じがした。
自分の将来のために努力し続ける姿は尊敬です。
おれより怪我していたけど、最後まで続けてくれてありがとう。
笠井
気がついたら同じバイトに入ってきていて、驚きました。
自主練で「ボール蹴ります?」って聞いたら、少しにやけて「お願いします」って言うところ、良いなって思います。
勇気を出して、応援団長を務めてくれてありがとうございました。
笠井がいつも敬語で話しかけてくるので、自然と敬語で書いていました。
メンタル面はこれからも改善していきましょう。協力します。
がくと
守備では球際を戦って、身体を張って守って、攻撃になると迫力を持ってサイドを駆け上がる。まさに戦士。気がついたらゴール前にいたり、クロスでアシストしたりしている。
いつもチームを助けてくれるがくとに、すごいなって感心してた。
何を考えているのかわからなくて、会話も上手く噛み合わないけど、一緒にいて楽しかった!
そろそろゴルフコース回ろうね。練習しとく。
はるひこ(見目)
最初は苦手だったけど、みんなからいじられて雰囲気をにぎやかにしているところを見るうちに、良いキャラクターしているんだなって思った。
試合中はほぼ聞こえないけど、映像で見るといつも後ろから吠えてくれていたね。
あんまり言わなかったけど、多少のピンチを作られても見目が止めてくれるだろうって信頼はしていた。特にPKとか。
副キャプテンとしては特に何もしてくれなかったけど、まあ、ありがとう。
「けど」ばっかりになったけど、なんだかんだ一緒にやれて楽しかった。
璃空
とにかく何をするにしてもずっと一緒だったな笑。
璃空がいなかったら、絶望から抜け出せなかったし、ここまで全力で駆け抜けることはできなかった。
一緒に残って遅くまでボールを蹴って、一緒にチームについて頭を悩ませる。一人じゃないってことに、何度救われたかわからない。
ここまで信頼できる人にはそう出会わないんだろうなって思う。
お互いに自分の想いとかを共有するタイプではないけど、なんとなくわかりあえている気がしていた。
お酒はもうあんまり飲まないから、嫌な顔しないでね。
学籍番号が隣で、大東で一緒にサッカーができて良かった。
これからもよろしく!
巧
最後の1年は特に大変だったな!
大変なことを思い出していたらきりがないけど、それぐらい濃い1年だったよね。
苦しいことや辛いこと、苦手なことからも逃げずに、本気で自分自身とチームに向き合い続けた時間は、本当に貴重な経験になったと思う。
一緒に駆け抜けた時間は、一生の思い出です。
優しい人柄や温かさは自分にはないところ。
巧がキャプテンで本当に良かった。
先頭に立ってチームを引っ張ってくれてありがとう。
これからもよろしくね。
家族へ
ずっと応援し続けてくれてありがとう。
期待に応えることができなくて申し訳ないです。
それでも、最後の最後まで全力で駆け抜けることができました。
サッカーを辞めるつもりはないし、サッカーが無くなったとしても自分の挑戦は続きます。
これからも応援してくれると嬉しいです。
兄弟はみんな優秀で、学歴は完敗で、プレッシャーもあったけど、だからこそサッカーで結果を残したいと思っていたし、兄弟に負けたくないっていう気持ちが原動力になっていました。
兄貴にはこれからもたくさん世話になると思います。よろしくお願いします。
エステレーラSC、ルキナス印西SC、市立船橋高校サッカー部でお世話になった方々にも感謝です。ありがとうございました。
最後に、サッカーありがとう!
サッカーのおかげで、今まで最高に充実した人生でした。
これからの人生がもっと充実したものになるように、日常の取り組みの質を意識して、がんばっていきたいと思います。
以上で終わりたいと思います。
非常に長く、拙い文章だったと思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
#10 井原充葵
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